“Do not go gentle into that good night,
Old age should burn and rave at close of day,
Rage, rage against the dying of the light.” _
Dylan Thomas
『Do Not Go Gentle Into That Good Night』
*
商店街のアーケードは買い物客で賑わっていた。店先にはそれぞれクリスマス・ツリーが飾られ、中には腰を動かす玩具のサンタクロースもいた。ついさっきまで小雨が降っていたこともあって、人びとは傘を片手に買い物袋を抱え込んでおり、狭いアーケード街は人熱れでむせかえっていた。僕はフードが付いた紺色のダッフル・コートに、同じ色合いのニットの帽子を目深に被っていた。おまけに覗き込んでも様子がわからないくらい、濃いサングラスをかけて通りを歩いていて、背中には図面を入れる円筒ケースを襷がけしていた。第二次世界大戦中にダンケルク海岸を歩いたら、もしかしたら現地の漁師たちに威勢良く、「よう、モンティ。 “そいつ” の着心地も悪くないだろう、うん?」って大声をかけられたかもしれない。
待ち合わせの場所として彼女が指定した店は、商店街のアーケードが途切れたT字路にあった。「純喫茶 赤レンガ」と看板に記されているように、店は赤い煉瓦を積み上げた構えをしており、両脇の木造建ての乾物屋と漬物店の間に挟まれて、明治時代の異人館のようにひときわ目立っていた。店の左手にある入り口はくすんだガラス扉で、右手は透明の大きなガラス窓がはめられていたけど、曇って店内の様子を窺うことは出来なかった。約束の時間までまだ十五分ほどあったけど、小雨の中を歩いてきたから身体が冷え切っており、温かい飲み物を求めて迷うことなく店内に入った。入り口で傘をあずけて店内を見回してみる。町家を改装して造られたのか店は奥まっていたが、カウンターとテーブル席のシンプルな造りだった。
カウンターの向こうで口髭を蓄えた店主が、大切にしている植木鉢に水やりをするように、フィルター越しに湯を注いで慎重に珈琲を淹れていた。店内は暖をとろうとする買い物客で混んでおり、カウンターとテーブル席は全て埋っていた。学生のアルバイトがお盆を片手に僕に近づいて来て、只今満席でございましてと伝えようとした時、テーブル席の一番奥で手を振っている客が見えた。僕はかけていたサングラスを外して目を凝すと、テーブル席で手を振っているのは彼女だった。待ち合わせ客だとわかると学生のアルバイトは、ほっとしたのかカウンターの向こうに引っ込んだ。僕は襷がけしていた円筒ケースを降ろし、着ていたダッフル・コートを脱ぎながらゆっくりと、彼女の座っているテーブル席の一番奥に向かった。
「約束の時間まで余裕があると思ったんだけど、どうやらきみに先を越されたみたいだ」と僕は自嘲気味にテーブル席に座っている彼女に伝えると「ウサギとカメの物語みたい」と彼女は云い、クスクスと笑いながら僕を見上げていた。彼女の澄んだ瞳で真っすぐ見つめられると僕はますます、間抜けなウサギみたいな気分になったけど、彼女にそのことを悟られないように席に着いた。そんな僕の気持ちを察したのか彼女は僕に向かって、「あなたが来るまで読みかけの本のつづきを楽しんでた」、そう云うと大型書店の名前が印刷されたブックカバーに包まれた単行本を持ち上げた。その屈託のない顔には読書を純粋に楽しんでいる様子が伺えたけど、彼女もまた久しぶりに会う僕との時間に慣れようと努めているのがわかった。
*
「純喫茶 赤レンガ」は口髭を蓄えた店主と学生のアルバイトだけで、従業員は他におらずおまけに店内の席は埋まっていたから忙しそうだった。客の大半は買い物ついでに立ち寄った地元の人間たちがほとんどだった。彼らは与えられた役を演じるエキストラ俳優のように脇役に徹していた。僕らに関心を寄せる者はもちろん誰一人いなかったけど(当然と云えば当然だ)、撮影用のカメラが回っていることだけは知っている様子だった。そう思い始めて見回すと店の雰囲気も映画のセットみたいに何となくよそよそしかったけど、わざわざ組み立てる理由が僕には思いつけなかった。天井に設置された小型スピーカーからは映画のワンシーンを成立させようと、カーペンターズの「メリー・クリスマス・ダーリン」が流れていた。
「想像していた以上の出来栄えだった」
「失礼?」と僕は訊き返した。「あなたの絵のことよ、想像していた以上の出来栄えだった」と彼女は真っすぐこちらを見ながらそう伝えてきた。「会場に足を運んでくれたんだ?」と僕が訊ねると、最終日の昼間にと彼女は答えた。「最終日は僕も会場にいたんだけど姿を見かけなかったな、その日はちょっとした “ごたごた” があって、昼間の数時間は会場を抜けていたんだ」と僕は弁解した。「あなたの描く絵は好きよ」と彼女は云い、それから思い出したように口許を緩めて微笑んだ。不思議な娘だ、と僕は改めて思った。真面目に語ったかと思うと次の瞬間には別の顔を魅せる。その微笑みは否が応でも僕にダ・ヴィンチが晩年に描いた「モナ・リザ」を思い起こさせた。世界中の人びとを惹きつける謎多き肖像画の微笑み。
「気に入ってくれたみたいで、ほっとしているよ僕としても」と正直な気持ちを伝えると、彼女はそれには応えずにカウンターの向こうへと視線を移して、スポーツ大会の始めに代表選手が宣誓するような格好で手を挙げて、忙しそうにしている学生のアルバイトを僕らのテーブル席に呼んだ。「わたしは温かいココアを、こちらは……」と注文を催促するように彼女は手を差し出したので、僕はメニューもろくに見ないで珈琲をたのんだ。学生のアルバイトが伝票に注文を書き込んでカウンターの向こうに立ち去ると、彼女は着ていたライト・ブルーのカーディガンの襟を正しながら、「モナ・リザ」の微笑みを再び浮かべた。それから僕がカーディガンの色を褒めようと思ったところで、先を越して彼女の方から話しかけてきた。
「あなたのそのちょっとした “ごたごた” の話を訊かせて」、彼女の口許に浮かんでいた微笑みはいくぶん後退していたものの辛うじて残っていた。「 “ごたごた” の話?」と僕が訊き返すと彼女は今度はローマ空港の税関職員みたいに無表情な顔_机の上に足こそ乗っけてはいなかったものの_で小さく、そうよと呟いた。「 “ごたごた” と云っても何か大きな問題が起こったわけでもないんだ。結果的には何も起こらなかったし、きみに話してやるほどカラフルな話でもないと思う」と僕は伝えたけど、彼女の好奇心は収まるどころか逆に僕の云った言葉を養分に根を張ってしまった様子で黒い艶やかな瞳は話のつづきを待っていた。それで僕は諦めて彼女にその日起こった “ごたごた” の話をすることになった。僕の個展最終日の話を。
*
個展は京都市内の外れにある本屋の一角を借りて数週間開催されていた。その本屋には取材を兼ねて二度足を運んでいた(今年の六月と八月だ)。描き下ろしの作品を搬入するために訪れたのが三度目で(十月だ)そして今回個展の閉会に合わせ作品を搬出するために四度目の訪問を果たした。半年間のうちに四度も京都を訪れたのはこれが初めてだったし、二ヶ月に一度のペースで自宅から四百キロ以上も離れた街に通うのは骨が折れた。毎回自家用車_中古で購入したシャーベット・ブルー色の車だ_で通っていたから、走行距離を示すメーターは途中で十万キロを超えてしまった。でもそのおかげで京都市内の複雑な道路事情やコイン・パーキングの場所には詳しくなった(覚えるまでにたくさんの身銭を切りまくったけど)。
個展のために描き下ろした作品は全部で八つでそのどれもが本屋の店内の様子を描いた(一店舗だけ例外的に店の「外観」を描くことになった)。八つの本屋は京都市内(外)に実在し大型チェーン店とは一線を画す、いわゆるインディペンデント系の本屋を中心に取材し作品の制作を行った。敷居が高く入るのも躊躇ってしまいそうな老舗の本屋も描いたし、本好きな観光客だったら一度は訪れたいと思うランドマーク的な本屋も描いた。そうした本屋とはある一定の距離を置いた新興の本屋も描いたし、特定のジャンルに特化した専門的な本屋も描いた(通うのにとても苦労した)。店の営業に支障を来たさぬよう取材は基本的に一回で済ましたが、制作のテクニカル的な問題(構図決め)で再度取材を申し込んだ本屋もあった。
「本屋と女の共犯関係」というのが個展のタイトルで、描き下ろした作品全てに「本を読む女たち」の姿を描いた(それも熱心に本を読む姿を)。「本を読む女たち」はただふらっと店に立ち寄ったという雰囲気は全くなく、 “その” 本屋に通うことを目的としている意思が全体的に漂っていた。ある女は店の奥で見つけた本に心を奪われている様子が伺えれば、別のある女は店内の決まった場所で同じ本をくり返し読んでいる様子が伺えた。またある女は子どもの頃に読んだ本を選んで目を輝かせていれば、また別のある女は本を開きながらも即物的に己の欲望を満たすといった具合に。八人の「本を読む女たち」に共通しているのは皆、我を忘れたように “素” の自分をさらけ出している点だった(見てはならぬような本当の姿を)。
僕はある年の冬にこれら一連の、本屋と「本を読む女たち」の姿の中にある種の(秘密の)関係性を見出だした(東京でまだ暮らしていた頃だ)。それが、その(秘密の)関係性が「共犯関係」という言葉に置き換わるまで少し時間はかかったけど、個展のタイトルにしてみようと思いついた。そして、描き下ろしの作品が八つも生まれることになった。個展初日を迎えるその直前まで “面白くない出来事” に足を引っ張られたりしたものの、開催してからは “予想以上” に多くの人びとが会場を訪れて作品を鑑賞し、その多くの人びとは作品に対して(概ね)好意的な感想を残してくれた。でも終盤でそのちょっとした “ごたごた” は起こった。それはちょうど僕が搬出のために京都の街を訪れた、個展最終日から三日前の出来事だった_
*
僕がそこまで一気に話すと学生のアルバイトがお盆を片手に、僕らが座っているテーブル席に近づいて注文したココアと珈琲を置いて立ち去った。僕らはト書きの指示に従い<無言>でそれぞれ飲み物を啜った。店内はさっきまで満席の状態だったのに、今では空席が目立つようになっていた。口髭を蓄えた店主はカラット数の少ないダイヤモンドを扱う宝石商のように、グラスやカップを天井に翳しては神経質に磨き具合を確かめていた。彼女はココアに少しだけ口をつけたあとカップをソーサーに戻し、その艶やかでミステリアスな瞳を真っすぐ僕の方に向けて話のつづきを待った。僕は珈琲を飲みながら彼女の一連の動作を眺めていた。それから珈琲のカップとソーサーをテーブルの脇の方にやり大人しく話のつづきを語った。
京都市内に入ったのはその日の午後のことで昼食を簡単に済ませて、国道沿いのスタンドでガソリンを満タンに入れてから個展の会場に向かった。会場に着いた頃には辺りは日が暮れかけて街灯が点き始めていた。店内に入るとレジ付近に店長が待っており僕の顔を見るなり声をかけてきた。「間に合って良かった、お待ちしておりました」と安堵した様子で、「到着は閉店前くらいになると伝えましたが」と僕が訝しげに店長に云うと。「ええ、もちろんそれは聞いていました。在廊は明日から三日間と。ただ、今日お越しになられる話をしたら “あちら” のお客様が会いたいと_」と視線を店内の一角に移した。僕も店長に倣って一角に視線を移すとそこに一人の男が立っており、展示された描き下ろし作品を眺めつづけていた。
閉店作業もあるのであとはお願いします、と云い残して店長はバックヤードに引っ込んでしまったので僕は仕方なく店内の展示スペースへ移動し、描き下ろし作品を眺めている男の側に近づいた。男はダーク・ブラウンのスーツに黒のタートルネックというシックな格好で、コートは着ておらず見たところ手ぶらで、僕が側に近づいても気づいた様子も見せずに、展示スペースの壁に掛けた “ある” 描き下ろし作品を熱心に眺めつづけていた。「その作品は構図を決めるのに時間がかかりました」と僕が声をかけると、男はようやく我に返りこちらを見た。それから僕が筆名で挨拶をすると状況を把握したのか身体の前で組んでいた腕を解いてこちらに正対して「お会いできて良かった。はじめまして、小木蓮と申します」と名乗った。
「はじめまして、小木さん」と僕が応えると彼はお近づきになれたしるしとして、下の名前でどうか呼んでほしいと真面目な顔で云ってきたので、面喰らいつつも「蓮さんは絵が好きなのですか?」と僕が訊ねると、蓮(れん)という名前は彼の叔父が付けたものでその叔父は画家をしており、自分は絵は描けないが絵を “眺めること” は好きだと説明した。「モネがジヴェルニーに移ってから描いた絵はご存知でしょう」と訊いてきたので、「蓮の池の絵ですね」と僕が答えると彼は小さく頷きつつ、「叔父はモネが好きでした、とくに蓮の池の絵を気に入っていました」と打ち明けた。小木蓮はそれ以上自分の生い立ちや叔父について語らなかったので、僕はさっきから気になっていたことを彼に思い切って訊いてみることにした。
*
「失礼ながら声をかける前に蓮さんを見ていたんですが、さっきから “この” 作品だけ熱心に眺めているように僕には思えたんですが違いますか?」と描き下ろし作品のうちの一つを指差して小木蓮と名乗る男に訊くと、彼はウェリントン型の眼鏡のブリッジを軽く触りながらその作品を見て、「ええ、確かに。私は “こちら” の作品をずっと眺めておりました。何せ私の妻がこの絵の中に登場していたものですから驚いてしまいましてね」「私の妻?」今度は僕が驚く番だった。「蓮さんの奥様がこの作品の中に描かれているということですか?」と僕は小木蓮に向かって訊き返した。「はい、仰る通りです」と彼は短く答え作品に近づくと、僕のとったポーズを真似るように絵の中央に描かれた一人の「本を読む女」を指差した。
その絵は個展の描き下ろし作品の中でもとくに人目を引くタイプの作品で、取り上げた本屋は京都市内でもランドマーク的な役割を果たしており、見る人が見ればすぐに店名が出てくるような有名な本屋だった。そんな訳で僕はその本屋の特徴を出すため構図を決めるのにとても苦労したのだ。実際の本屋はクラッシックな雰囲気が漂い使われている棚や什器も木製で、僕はその本屋の特徴は “平台” と呼ばれる拡販スペースに在ると気づき、絵の手前に “平台” を大胆に描いてさらに店内の空間に奥行きを持たせるため、書棚の前に「本を読む女」を配置して本のページを繰る姿を描いた。でもその絵の中に描かれている「本を読む女」はモデルは使っておらず、僕が下絵を元に想像して描いたイメージとしての「本を読む女」だった。
「小木さん、この作品ですが_」と云いかけたところで彼は首を振った。「蓮さん、この作品ですが特定のモデルはいません」と僕は云い直した。実際この本屋を取材させてもらった当日はまだ午前中ということもあって、店内で本を読む女性の客は数える程度しかいなかったと記憶している。「この絵の中に描かれている登場人物は僕がイメージで拵えたものです、もちろんリアリティを出すためある程度 “客筋” は意識しましたけど……」小木蓮はただ黙って僕の説明に耳を傾けていた。初めて訪れた美術館で鑑賞者がイヤホンを付けて展示作品や館内のガイダンスを聴き取るように。それから彼はおもむろに僕にある提案をもちかけてきた(その提案はとても奇妙なお願いだったし結果的に彼の提案は実現しなかったのだけど)。
「私にこの作品を譲ってもらえないでしょうか?」と小木蓮は云った。「もちろん個展が終わってからで構いません。ただし条件もございます_」「作品は購入可能です。でも条件って何でしょう?」と僕は彼に訊ねた。小木蓮はたっぷり時間を置くようにもう一度その絵を眺めてから云った。「この作品はあなたから直接手に入れたいのです。 “仲介” を通さず個展が終わったあとあなたから」彼の云っている条件の意味が解らなかったので「よくわかりませんね。個展の開期中でも終わったあとでも作品の値段は変わりません。どちらでも同じことだと思います」と僕は素直に云った。「それに僕としては展示スペースを提供してくださった、こちらの本屋さんを通してもらいたいと思っています」と僕はさらに付け加えて云った。
*
その時、タイミングを計るように店内で流れていたクリスマス・ソングからクラッシック音楽に切り替わった(ショパンの有名なエチュードだ)。「閉店の時間が迫っているようだ、今日はこの辺で失礼いたします」と云って簡単に会釈したあと、小木蓮は店の入口に向かって歩き出し始めた。でも何かを思い出して彼はすぐにこちらに戻って来た。それから僕の顔を一度見てそのあと例の描き下ろし作品を見て確信を得たように指摘した。「絵が傾いているように見えます、おそらく紐が緩んでいるのかも」そう云うと彼は片腕を使って胸の前で手刀を水平に作り腕を揺らして見せた。そう云われて僕も目の前のその作品を改めてよく眺めてみた。他の描き下ろし作品と比べると、わずかだけど絵が左側に傾いているのがわかった。
小木蓮は自分は実は音楽家で楽器を扱うから手先は器用だと前置きした上で、「差し支えなければ私が掛け直すことも出来ますが」と申し出たが、「このくらいはいつも一人でやっていますから……」と僕は答えつつ、展示されている描き下ろし作品に手を伸ばしてその場で絵の傾きを正した。「あとで店の方にも伝えておきます、展示はまだ三日もつづきますし。蓮さんに指摘されていなかったら、気がつかなかったかもしれませんね」と僕は素直に彼に礼を云った。それから僕は店の入口へと彼を導いて会場に足を運んでくれた礼も云った。別れ際に彼は満足そうな笑顔を浮かべて、「それにしてもサリンジャーとはね、彼女が熱心に読んでいましたよ。私はそれほどでもありませんが、わかりましたよあの “文句” は」と云った_
_小木蓮のその言葉を聞いて僕は愕然としてしまった。彼が口にしているのは、あの作品の中に浮かんだ「文章の一節」のことを云っているのだ。「髪を結んだ女」というのがあの絵のタイトルで僕が考えて付けた(註:本当の絵のタイトルは別にあるけど “ここ” では語る意味を持たない)。あの絵の舞台はランドマーク的な役割を果たしている有名な本屋で、(ポニーテールに)髪を結んだ女が一人で本を読んでいる姿が描かれている。髪を結んだ女はちょうど絵の中央に位置している。女が本を読んでいる場所から右上部に向かって、 “明朝体の文字” が立体的に複数浮かんでいる。 “明朝体の文字” はサイズが大小あり店内をあてもなく漂っているけど、文字を一つずつ拾い読んでいくとそれが「文章の一節」だとわかってくる。
「よくわかりましたね、サリンジャーだと」僕は感心しながら小木蓮に訊いた。「蓮さんの奥様はサリンジャー作品の大ファンなのでしょうか?」「妻は本をよく読んでいました、それも海外文学を中心にね。サリンジャーは彼女にとって特別です」と彼は答えた。読んでいました? 特別? 「ついさっき “あなた” はあの絵の中に描かれている登場人物は “あなた” がイメージで拵えたものだと特定のモデルは存在しないんだと仰った……たぶん、その通りなのでしょう。でもなぜか “私” の目には妻が本を読んでいるように見えた。そこには何か決定的な違いがあるように思えます」、それだけ云い残すと小木蓮は店を出て行った。個展最終日にまた来るので私のお願いについてもう一度考えてみてください、と最後に付け加えて。
*
再び学生のアルバイトがお盆を片手に、僕らが座っているテーブル席に近づき。空になったグラスに水を注ぎ始めると、僕は一旦話すのを止めて、すっかり冷めてしまった珈琲を下げてもらい新しいのを注文した。テーブルの向かいに座っている “彼女” に何か飲むかいと訊こうとしたところで、彼女が首を横に振ったので学生のアルバイトは僕の注文分だけ伝票に書き込んでカウンターに戻って行った。それから僕は呼吸を整え彼女を見た。彼女は今ではリラックスしているように見えた、その証拠に頬杖をつきながら僕の顔を眺めていた。肩にかかった長い髪は瞳と同じくらい漆黒で、眺めていると吸い込まれそうな気分になった。物音もしない広大な宇宙空間でブラックホールが何もかもを引き寄せてはのみ込んでしまうように。
「その手先の器用な音楽家の人、小木さんって云ったかしら?」、突然彼女が口を開いたので僕は驚いて危うくグラスの水をこぼしそうになった。「うん、小木蓮さんって名前で、とても興味深い人物だった」と僕はまだ頬杖をついている彼女に向かって答えた。彼女は僕の返事には反応せず、何か別のことを考えている様子だった。艶やかな瞳は今では伏せられ下唇をやや噛みながら埋もれた記憶の断片から何かを探り出そうとしていた。時折、瞼がうっすらと開かれ彼女のまつ毛が微かに揺れているのがわかった。伏し目がちな瞳の奥は相変わらず漆黒の宇宙が広がったままだった。美しい娘だ、と僕は素直に思った。彼女もまた(この僕にとっては)とても興味深い “存在” だった(僕は彼女の「名前」すらまだ知らないのだ)。
彼女が長い思考にその身を預けている間、僕は話すのをやめて小木蓮のことを考えた(理由はわからないけど邪魔しない方が良いように思えた)。画家の叔父が名付けた「蓮」という名前の人物、彼はどういう経緯で個展のことを知ったのだろうか? なぜあの描き下ろし作品(絵のタイトルは「髪を結んだ女」だ)を直接僕の下から手に入れたがったのか? 小木蓮が云うようにあの絵の中には(海外文学好きの)彼の妻が描かれているのだろうか? 描き下ろし作品の中に浮かんだ「文章の一節」がサリンジャーのものだとどうしてわかったのだろう? そして彼の妻は今どこにいるのだろう? 何もかもわからないことだらけだった。その “謎” はキリコの絵のようにミステリアスであり、どこかシュールな雰囲気が漂っていた。
その時、長い思考から目覚めるようにテーブルの向かいで頬杖をついていた彼女が姿勢を正して深呼吸した。それからグラスの水を一口飲んでから真面目な顔をして僕に質問してきた。「ねえ、あなた最初に私に向かって、個展最終日に “ごたごた” が起こったと、そう云ったわよね?」「うん、ちょっとしたことだったけど」と僕は答えた。「そのちょっとした “ごたごた” のことだけど_」と彼女は大袈裟な仕草で肩にかかった長い髪を払いながら、今度は悪戯っぽく小声で囁いた。「_何が起こったのか当ててみましょうか?」 お好きにどうぞ、と僕は肩をすぼめて見せた。「 “その” 描き下ろし作品だけど、最終日に失くなったんでしょう?」 僕は息をのんだ。「どうしてわかったんだ?」 テーブルの向かいで彼女は可笑しそうにクスクス笑っていた_
京都探訪♯3+♯4(完結譚)_ 小木蓮のクリスマス・ストーリー前篇
[了]
この物語は基本的にフィクションです